1919年10月、孫文が中心となって、中華革命党を改組して結成した中国の大衆政党。三民主義を理念としながらも、1924年1月の第1回全国大会でソ連との連携、中国共産党との合作に踏みきり、第1次国共合作を実現した。翌年、孫文が死去すると蔣介石が台頭し、1926年に軍閥勢力を倒すために北伐を開始、翌年、上海クーデタで共産党と決別した。1928年、北伐を完了して中華民国の権力を握った。1931年の満州事変以来、日本の侵略が始まるが共産党討伐を優先、1936年の西安事件を機に共産党の協力に転じ、1937年の日中戦争勃発を機に第2次国共合作を成立させ、抗日戦を戦った。
1919年の五・四運動を目撃して、人民大衆のもつエネルギーを認識した孫文は、中国の民族主義の高揚を受けて、従来の中華革命党に代わり、同10月、新しく大衆政党として中国国民党を組織した。中国国民党は、前身の中華革命党が秘密結社であったのに対し、公然と活動する大衆政党として組織された。 → 中華民国
中国国民党の結成まで
孫文の関わった政治結社の系統は中国同盟会(1905年~1912年)→国民党(1912年~13年)→中華革命党(1914年~1919年)と続いており、中国国民党がその最終的な姿だった。中国国民党を略して単に「国民党」という場合も多いが、それとは別に最初に結成された国民党とは違うので区別する必要がある。この国民党は8月、孫文と宋教仁が指導して結成した公開政党で、臨時約法を実現させたが、翌3月に袁世凱政権によって宋教仁が暗殺され、解散した。東京に亡命した孫文は、1914年に再び秘密結社として中華革命党を組織した。国共合作へ
中国国民党はに大衆政党として発足したが、当初は依然として孫文の個人指導の面が強く、必ずしも開かれた公党とは言えなかった。それが転機を迎えたのは、孫文がロシア革命を成功させたロシア共産党に強い関心を持ち、ソヴィエト=ロシアと接近してその影響を受け、党の改革が必要と考えるようになってからであった。すでには7月、中国人民に対しカラハン宣言(第1次)を送り、旧ロシアの特権放棄と国交樹立を呼びかけていたが、孫文はこのロシア革命の成功に刺激を受け、自らソヴィエト政権との接近を図ろうとした。コミンテルンは1921年に中国共産党の設立を指導し、さらにヨッフェを派遣、中国国民党と中国共産党が協力して帝国主義国の侵略にあたることを働きかけた。1月には孫文はソ連(1922年に発足)との連携と、国共合作に合意した。第一次国共合作と国民党改組
孫文はヨッフェとの交渉で国共合作を決意、1月に中国国民党一全大会を広州で開催し、第1次国共合作を実現させた。共産党員を党籍を有したまま国民党に入党することを認め、同時に国民党改組を行い、大衆的討論の保証、選挙による幹部の選出などを採り入れて、近代的な公党に脱皮を図った。この時の新たな理念は、後に新三民主義といわれ、「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策として提起された。こうして国共合作によって「反軍閥、反帝国主義」を掲げた「国民革命」を推進する態勢を整えた。広州国民政府の樹立
、孫文は「革命いまだならず」と記した遺言で国共合作の維持を命ずる遺言を残してが死去した。その直後のには上海で中国人のストライキに対するイギリス、アメリカ、日本などの租界警備隊による発砲などから五・三〇運動が起こり、広州・香港ではストライキで一時貿易がストップするなどの盛り上がりがあり、それを受けて中国国民党はに広州国民政府を樹立した。これは広東政府ともいわれ、主席はその頃は孫文の後継者とみなされていた汪兆銘が就任した。この段階ではまだ広東省を中心とした地域政権であったが、最初の国民政府であり、北京の軍閥政権と対峙する政権として後に中華民国の唯一の政権となっていく。北伐と上海クーデタ
国共合作のもとで、蔣介石は国民革命軍を率い、7月から「北伐」を開始した。その過程で共産党勢力がストライキや反地主闘争、さらに外国租界の解放などの動きを強めると、資本家や地主層、外国資本は警戒を強め、国民党内にも共産党との合作に反対する右派が台頭した。それの動きに対応した蔣介石が、に上海クーデタを断行、共産党に対する弾圧を行った。さらに蔣介石はに南京国民政府を創設、国共合作路線を継承した武漢政府と対立した。しかし武漢政府自身も国民党右派と共産党の対立が生じ、に汪兆銘が共産党との分離を声明して第一次国共合作は消滅した。その後武漢政府は南京国民政府に合流、中国国民党は南京の蔣介石のもとで統一された。国民政府の中国統一
に蔣介石の北伐軍は北京に入城して軍閥政権を倒し、中国統一を完成した。これによって中国国民党は中華民国の実権を掌握し、に国民政府が本格的に発足、蔣介石は中華民国国家主席となり、陸海空総司令を兼ねた。共産党との内戦
以後、中華民国は中国国民党の一党独裁による南京国民政府によって代表されることとなり、蔣介石は共産党との闘いを強化していった。に満州事変が起こっても日本軍に対する抵抗よりも、共産党勢力との戦いを優先する安内攘外策をとった。1934年には共産党の拠点である瑞金を攻撃して、西遷(長征)に追い込んだ。日中戦争と第2次国共合作
西安事件 奉天軍閥張作霖の息子である張学良は1928年に張作霖爆殺事件で父が謀殺された後、国民政府に帰順していたが、1931年の満州事変以来、本拠の満州を日本軍に奪われ、抗日の熱意に燃えていた。張学良は共産党との戦いを優先して抗日に積極的でない蔣介石に改心を迫るため、の西安事件で蔣介石を軟禁して挙国一致の抗日を迫った。蔣介石も共産党との内戦の停止に同意し、ここに国共合作が復活する気運が生じた。
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国民党の敗北
日中戦争の勝利の後、1945年10月、共産党との双十協定を締結、政治協商会議を開催し協力態勢をとったがすぐに決裂、1946~49年、再び中国共産党との激しい内戦となった。当初は優勢であったが、次第に国民の支持を失い、敗れて1949年末に大陸を離れ、台湾に移ることとなった。
日中戦争を勝利した中国国民党蔣介石は、1945年8月末から重慶での中国共産党との会談に応じ、に双十協定を締結、内戦回避で合意し、統一政体樹立をめざしてに「政治協商会議」が開催された。
中華民国憲法の制定 政治協商会議(政協)には共産党とそれ以外の民主政党も参加し、国民党は主導権を制約されることとなったため党内の不満が強まった。両者は早くも6月には武力衝突し内戦が始まるが、国民党は1946年11月に政協の合意を無視して単独で憲法制定国民大会を開催し、一方的に中華民国憲法を制定、1947年1月1日に公布した。それによって共産党との対決路線を明確にするとともに、それまでの「以党治國」といわれた国民党一党独裁を改め、民主的な政党政治に移行を試みた。
国共内戦
政治協商会議は軍事面での統合での不一致、イデオロギーの対立から両者は決裂し、、激しい第2次国共内戦に突入した。当初、国民党軍は兵力で勝り、またアメリカ軍の支援を受けて優位に戦い、一時は共産党の本拠地延安を占領するほどだった。しかし、共産党は農村部を押さえて各地で土地改革を進めたことで民衆の支持を受け、特に東北地方(旧満州)でソ連軍の協力のもと勢力を回復していった。国民党軍は1945年10月にに入り、日本統治を終わらせたが、大陸出身の国民党員(外省人)は台湾人(本省人)を抑圧したため強い反発を受けには二・二八事件が起こった。このような民衆の反発によって、国民党は次第に支持を失い、1948年には北京、南京、武漢、上海などの大都市が次々と共産軍に奪われて行った・ついに1949年10月には中国共産党は北京を首都に、中華人民共和国の設立を宣言し、敗れた蔣介石と国民政府・国民党軍は12月に台湾に逃れることとなった。国民党の敗北の原因
蔣介石の率いる中国国民党は、日中戦争後の第2次国共内戦において、軍事的には圧倒的に優位であったにもかかわらずに敗北した。その原因について、次のような整理がある。<横山宏章『中華民国』中公新書 p.293-294>憲政の不徹底:憲法が制定され、民選国会が登場したが、国民党支配に固執して、共産党や民主諸党の抱き込みに成功せず、旧態依然たる国民党支配に対する民衆の不満が続いたこと。
戦後経済の再建に失敗:戦後アメリカ製品を中心とする輸入超過により急速なインフレが進んだが、蔣介石を頂点とする四大家族といわれる官僚資本の経済独占が続き、対応できなかった。
権力の腐敗:共産党に対する恐怖心から、中央の四大家族から地方に至るまで、国民党権力の強化が図られ、その中で賄賂の横行、情実人事など腐敗が進行した。
テロの横行:国民党独裁のもとで政権の腐敗が進み、政治的道徳律を喪失し、反対派の党派、知識人、学生運動などに対する手段としてテロが日常茶飯事となった。
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中国国民党(台湾)
1949年、国共内戦に敗れて中華民国政府と共に中国国民党も台湾に移った。その後、蔣介石・蔣経国総統は戒厳令を布き、唯一の政党として統治し、自由化や民主化運動は厳しく弾圧した。しかし、1980年代に民主化運動が盛り上がり1987年に戒厳令を解除し、1988年に本省人李登輝が党首・総統となって、1990年代に積極的な民主化を実行した。政党自由化で生まれた民進党との選挙戦では2000年に初めて敗れ政権を失った。
中国国民党は、共産党との国共内戦に敗れ、1949年、中華民国(国民政府)とともにに移ったが、実質的には一党独裁体制を維持し、依然として蔣介石は総統として独裁的に台湾を統治した。に死去し、権力は息子のが継承した。
この間、国民党が台湾に入った1949年以来の戒厳令が布かれ、国民党以外の政党を禁止するなど、国民党独裁体制を続けたが、1980年代に民主化運動が強まり、それを受けて蔣経国は、に38年間も施行し続けた戒厳令を解除した。さらに国民党に対する批判勢力として投獄されていた政治犯を釈放するなど、民主化への姿勢を見せ始めた。戒厳令解除に伴い、国民党以外の政党結党も認められ、民進党が結党され、野党勢力として成長していった。 → 台湾政府(中華民国)
李登輝の改革
台湾は、本土から移ってきた漢人が政治的にも社会的にも上位に立ち、台湾出身者(本省人)は抑圧された状態が続いていた。国民党においても同様であったが、蔣介石の死後、国民党の中でも台湾出身者の中にも発言力を強めるようになっていった。1988年、蔣経国が死去すると、次の総統に就任したのは李登輝であったが、彼は台湾で最初の本省人(台湾出身者)の総統であった。政権交代
しかし李登輝退任後の2000年の国民大会議員選挙では、国民党は初めて陳水扁の率いる民進党に敗れ、政権の座から降りることとなった。民進党は、国民政府は台湾を本土とすべきである(本土化)と主張し、中国からの分離独立も辞さない姿勢をとり、実現しそうにもない本土との統一を追い続ける国民党を批判して、民心をつかんだのだった。